期待しないということ。人事を尽くして天命を待つ。


 「期待しない」という言葉を聞くと、なんとなく非情なイメージを持ってしまいます。上司や指導者などから「お前には期待していない」と言われたらショックですよね。しかし、期待しないということは、本当にいけないこと・ネガティブなことなのだろうか?ということを最近考えました。


 「期待」という言葉を辞書で調べるとこうなります。

[ある人がそれをするのを(他の人が)あてにし、心待ちに待つこと。将来それが実現するように待ち構えること。]


 「あてにする」という言葉が示すように、期待するということは、見方によっては自己中心的・他力本願的な考えとも言えます。期待通りの結果を得られた場合は良いでしょうが、そうでなかった場合待ち受けるのは落胆です。また期待を受ける側にとっては、努力する原動力になることもありますが、反面、苦痛・プレッシャーにもなります。期待に応えられなかった場合、やはり受けた側も落胆するのです。


 つまり期待は無駄な心の痛みを生む可能性があるということ。そのダメージを考えたらあまり避けた方が良いという結論に自分は至りました。

 

 これを不動産業に置き換えてみます。例えばこの仕事は、どうしても申込・契約キャンセルというものがたまに発生してしまいます。始めた当初は、やはり落胆していました。何故なら、勝手に期待してしまっていたから。なぜ期待していたのか?恐らく、自分の数字など自己都合的なことと、これが決まればオーナーなどの利害関係者が喜んでくれるだろうという希望的観測があったからだと思います。


 しかし、今はそういったことが発生しても殆ど落胆しなくなりました。何故なら期待をしなくなったからです。しかし、期待をしないだけであとは何もしないというわけではありません。お客さんの為に、できることは必死に精一杯する。時に過剰にまで動いて、結果的に喜んで頂ける結末になるよう確率を高めることに集中する。やりきったら結果を待つのみ。駄目だったら原因を探って次に繋げる。


 このことは仕事だけでなく、子育ても同様です。子供に将来こうなってほしいという期待は、やはり本人にとっては重荷になります。ですので我が子には、最低限のことさえ身に着けていれば、どんな生き方をしても構わないと思っています。最低限のこととは、礼儀や思いやりの気持ちを持つということです。これも期待はせずにしっかりと教えられることを教えていくのみです。


 きっとこれが「人事を尽くして天命を待つ」ということなのでしょう。これは高校時代の野球部の監督がよく口に出していた言葉で、当時からなんとなく意味はわかっていたつもりですが、「期待しないこと」とリンクするんだなと最近気づきました。


 冒頭でも述べたように、場合によっては、受ける側が努力するときの原動力にもなるので、期待が絶対悪だとは言いません。ただ、「期待しない」だけで、世の人々もかなりストレスから開放されるのではないでしょうか。「なぜ言ったことができないんだ」「あの店はサービスが悪い」・・クレーム・文句・叱責は大方「こうしてくれるだろう」「こうあるべきだろう」のような過度な期待が原因です。10代の自殺も、親からのそれで子が逃げ場を失った結果・・というケースが多いはず。


 このようなことは「嫌われる勇気」で有名となったアドラー心理学でも語られています。

 「他者は、あなたの期待を満たすために生きているのではない」


 つまり、想定外の結果にならないための努力、想定外の結果になった時の次への対策。結局これが重要なのだと思います。